”オールド・シネマ・パラダイス”、、時々新作も

長年”映画と愛猫とオーストラリア”だったが札幌へ軟着陸し愛猫も亡くしこの新タイトルで心機一転だ。

”最後の決闘裁判”(21年)

原題は簡単に”The Last Duel”、だけなのだが邦題はこんな時にはカタカナじゃなくて”最後の決闘”、、に裁判まで付けてしまった。映画の内容からいけばもっと格調ある邦題にしても良かったしインパクトがある邦題なら映画館へも行ってたかも知れない。監督はリドリー・スコット、配役はジャン・ド・カルージュにマット・デイモン、ジャック・ル・グリにアダム・ドライバー、ジャンの妻マルグリットにジョディ・カマーでアランソン伯にベン・アフレックが扮していた(最後まで判らなかった)。

 

 

背景は1386年でフランスはノルマンディが舞台、史実に基づき実際に起きた事に脚色を加えたノンフィクションと言えば良いのか?映画では冒頭いきなり二人の決闘シーンから始まるがジャンとジャックの二人は親友同士、生まれや育ち、生い立ちは違うが優れた騎士で数々の戦場で助け合って来た仲だ。

その二人の間に居るのがマルグリットでジャンと婚約それから結婚し城主の妻に納まっている。それがあろう事かジャンが遠征中にジャックがやって来て強姦されてしまう。映画の主点はその辺りから”羅生門”風な展開になって進んで行く。即ちチャプターを区切って2幕目はジャンから見た事件の顛末、そして3幕目マルグリットの視点から語られて行くと言う手法になっている。

ジャックは最後の最後まで強姦ではなかったとマルグリットの訴えを認めないのだが1幕でも2幕でも無理やり押し入って力づくでマルグリットを強姦したのは明らかでこの点については見ている側もジャックが悪い、と認めざるを得ない。

時代が時代なので女性の側から訴えてもそれを立証するのは困難だ、本来なら領主であるピエール伯が裁くところだがジャックに肩入れしている為、ジャンはそうはせずに直接当時のフランス国王、シャルル6世に直訴してこの”最後の決闘として裁判”に訴える事にする。

そんな本編の展開が2時間弱続き冒頭の決闘シーンに戻って行く訳だがリドリー監督は”グラディエーター”で使ったようなアリーナ対決ではなく四方を囲まれたアリーナを使い如何にも騎士同士が対決する舞台設定を準備していた。

互いが馬に乗り長い槍を突き出して相手を倒すと言う決闘技でこれは迫力があった。馬から突き落としても相手の息の根をとめるまで戦う、、しかももしジャックが負ければアリーナの中央に作られた台座に縛られたマルグリットは虚偽の申告をした罪に問われ焼き殺される運命に、。

この辺りはチョイと理不尽じゃなかろうか、、と思ったが夫が決闘に負ければ全部一緒に始末されるって事になるような、。まあ松の廊下で刃傷騒ぎを起こせば当人は無論、御家断絶って事だってあったんだから無理もないのか?時代は300年も違っているが日本だって同じようなモノさ、。

どうも興行的には成功とは言えなかったらしいがこの映画の出来なら映画館へ行っても良かったなと思わせる久し振りの史劇でした。

”ナイル殺人事件”(22年)

アガサ・クリスティの書いた原作は1937年に発表され日本語に翻訳された時の邦題は”ナイルに死す”だった。それが1978年にはピーター・ユスティノフがポワロを演じ今回はケネス・ブラナーが”オリエント急行殺人事件”(17年)に続きポワロを演じ監督も制作もやってしまった。個人的には翻訳時の邦題の方が好きなんだが、、。

まあ犯人は原作通りなのでミステリーとは言っても最初っからネタバレになっているがそれでも時代に合わせた作風はなかなかの出来だった。

 

ガル・ガドット

莫大な遺産を相続したリネットにはガル・ガドットが扮し結婚する相手、サイモンにはアーマー・ハマー、アーフェミアにはアネット・べニング、そしてリネットの元カレで息子のブークにはトム・ベイトマンが夫々配役されていた。

ナイルに浮かぶ大型客船SSカルナック号はこの撮影の為にわざわざ建造されたらしいが船内は恐らく陸上のセットで撮影されている雰囲気だった。まあ”オリエント急行”と同じ手法ではなかろうか?

これまで色々な俳優さんがこのベルギー生まれのエルキューロ・ポワロを演じているがどうしても一番長くシリーズとして見ているデイビット・スーシェが似合っている気がする。一番素顔に近いメイクで出ていたのは”エクゼクティブ・デシジョン”(96年)で演じたテロの首謀者かも知れない。

ケネス・ブラナー

ピーター・ユスティノフ

アルバート・フィニー

デイビット・スーシェ

っとまあこれまでポワロを演じた人達なんだが容姿が原作に一番近いと言う点ではこれはアガサ・クリスティ女史に聞かねばならないがボクが一番に押すデイビット・スーシェはその母国語であるフランス語訛りのセリフが一番巧いと思うのだ。

無論全編英語だが時たまヘンテコリンな発音で”モナミ”とか”テル・トゥー・ミー”とか面白い表現をする。それにヤマ場で犯人を前に激高する時のセリフ回しが実に上手いのだ。如何にも怒りに駆られて英語の発音に口がついて行けない、、そんな感じで立て板に水が如く犯人を凹ませる場面になるとやっぱり彼がダントツで上手いのだ。

今回もケネス・ブラナーが真犯人を前に糾弾する場面があるのだが同じ怒り方でもチョイと違うのだ。デイビット・スーシェみたいな口から泡を吹かんばかりに英語の機関銃を撃っているような雰囲気には及ばなかった。

”断崖”(41年)

言わずと知れたヒッチコック監督のミステリー映画、日本で公開されたのが1942年なので流石にオレだって生まれる前だ。原題は”Suspicion"、今ならそのまま”サスピション”じゃなかろうか?でも当時の邦題は”断崖”で確かに重要な場面ではあるが原題をそのままに”疑惑”とか”疑念”でも良かったんだがな、、。

ストーリーはえらく簡単だ、ジョニー(ケイリー・グランド)は根っからの詐欺師、電車内で出会った資産家の令嬢、リナ(ジョーン・フォンテイン)に言い寄りあっと言う間に結婚に漕ぎつけてしまう。まさに”小娘をしゃぶ、、じゃなくて結婚欲に駆らせる”手際は見事なモンだ。

こりゃ絶対に何かありそうだ、と見ている側には思わせるしこんな”悪人”がのさばって行くのはリナが余りにも可憐で世間知らずの令嬢だけあって可哀想になる。ジョニーには定職もないし借金まみれで博打好き、そのプレイボーイ振りで女性には人気があるのでこんな結婚生活が上手くいくのかと心配になって来る。

 

 

案の定、映画の真髄はその口八丁手八丁のジョニーVS生娘リナの心理劇でその辺りはヒッチコック監督の独壇場だ。主にリナの方がジョニーのやる事なす事が信じられず自分に魔手が伸びて来て親友のビーキーが不審死を遂げたような事になるのではないかと不安に苛まれる様子はオスカーで主演女優賞獲得に繋がっている。

ジョーン・フォンテインも一番美しい頃で姉のオリビアデ・ハビランドと二人はこの時代美人姉妹としてそれこそハリウッドの頂点に立っていた。この三歳年上の姉と二人は東京生まれなのは有名な話だ。

現在のホテル・オークラ別館とスウェーデン大使館の間にあった邸宅で生まれている。1917年生まれでその後一旦母国、英国へ帰る予定だったのが結局、カリフォルニアに落ち着く事になり二人は演劇の世界へ入って行ったようだがジョーンは16歳の頃に父親と暮らす為に東京へ戻りそのまま聖心インターナショナルに通っていたらしい。

この”断崖”出演の前年には同じヒッチコック監督で”レベッカ”にも出演しているがその時はローレンス・オリビエが共演でその映画でも主演女優賞にノミネートされている。残念ながらオレの記憶にあるのはその二本くらいでそれ以外は見ていない、、。

姉のほうは”風と共に去りぬ”でのメラニー役しか頭にないのだが、二人ともちょっとばかり世代が違っていたようだ。

 

”グリーンランド - 地球最後の2日間”(20年)

地球が宇宙から飛んでくる流星群によって壊滅するってお話で人類は宇宙へ向かって飛んで行きそれを爆破する事も出来ずひたすらグリーンランドに作られたと言う地下シェルターへ向かって選ばれし人間たちが押し寄せるってお話だった。

主演のジョンはジェラルド・バトラーで設計技師役、将来的には必要とされる業種の専門家なので腕にはシェルターへ収容される為の許可証を巻いている。その彼は三人家族、最初は南部のアトランタからスタートして遥か遠くのグリーンランドを目指して苦難の道のりを行くもので道中よからぬ奴らに娘が誘拐されたりクルマを強奪されたりと散々な目に合いながらも避難先のグリーンランドへ辿り着く。

 

 

まあデザスターパニック映画だが飛んでくる翠星を排除する事がメインテーマじゃなくて邦題にあるように”最後の2日間”を描いている。全編CG仕立てで地球の各都市に飛来し破壊されてしまった街並みが全編通じて流されるがこうなるともう希望もナニもなりゃしない。選ばれし人達が如何に時間内にグリーンランドへ辿り着けるかが焦点で余り最後の時間を有意義に過ごそうとかと言う内容ではなかった。

もう少し内容のある映画だと思ったがこれじゃ脚本は不要かも、、ジョンが家族とはぐれながらも奥さんの実家でその父親、スコット・グレンと逢ったりする場面はあるが結局爺さんはそのまま残してクルマだけ拝借して北を目指して出発してしまうのだ。もう少し掘り下げた演出でも良かったのだが、。

恐らくこれはコロナ禍の影響もあるんだろうがハリウッドのメジャープロダクションが劇場公開を目指して作っているようには思えない。資金力の乏しいプロダクションが手掛けられるのは初めっから有料配信を目論んで作られた映画が中心じゃなかろうか?

テレビ映画の延長って事ならそれでも良いのだが、、

 

 

 

 

 

 

映画でガッカリな日本人 (再)

長年映画を見ているとなかには”なんじゃこれっ?”って印象の日本や日本人が出て来る。50~60年代は中国人が演じていたり明らかにセリフが陳腐なもの、背景だって絶対にこれは日本じゃないぜ、、みたいないい加減な作品もあった。近年は流石にそんな目くじらを立てるような場面や人間描写はなくなって来てはいるが、、それでもちょっと油断するとヘンテコな場面に遭遇する。
 
そんな映画から独断と偏見で、、;
 
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この映画にはかなりガックリさせられた。制作されたのは05年で監督はロブ・マーシャル、、しかも原作の”Sayuri"はアーサー・ゴールデンのベストセラーだ。
 
日本からは渡辺謙桃井かおり役所広司などそうそうのメンツが配役されているのに主演のさゆりちゃんを何とこのチャン・ツイイーが演じたのだ。そりゃセリフは全部英語だし日本語を喋れない女優さんでも良いだろう、、と言われりゃそんなもんかと思うのだが、、これは絶対に大失敗だったぜ、。
 
この映画に関してはキャスティングをしているのが日本の方なのでとやかく言いたくないのだがアメリカでも批判ゴウゴウ、、監督はスピルバーグから引き継いだロブ・マーシャルだったがもう防戦一方、何でもハリウッドの俳優協定がどうのこうので彼女を使う事になったそうだが、、思い出したくもない。
 
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次の映画はこれ、、オードリーの為に作られたオードリーの映画、”ティファニーで朝食を”(61年)なんだがその中に汚点が一つ、、。この何とも不可解な名前”Mr Yunioshi"を演じたミッキー・ルーニーである。
 
典型的な日本人と言う設定でオードリーの階上に住むおっちゃん、出っ歯でメガネ、何時も浴衣で胸にはカメラ、、と言う出で立ちだ。そりゃ俳優さんに非はない、あるとすればプロデューサーだろうが半世紀以上が経過した現在、こんな配役をしたら総スカンは間違いない。
 
まあ原作を書いた、トルーマン・カポーティもいたく反省しているし監督のブレイク・エドワーズもこれは失敗だったとインタビューで語っているので許してやろう。こんなおっちゃんが出てきたから余計オードリーの素晴らしさが際立ったと解釈しているのだが、、。
 
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こっちは56年に公開された映画、”八月十五夜の茶屋”である。この映画でサキニと言う訳の判らん日本人を演じたのがマーロン・ブランドである。
 
他に京マチ子グレン・フォードも配役されていたのだが、、どうやって見てもマーロン・ブランドが日本人は無理だろう、後年、モノマネで有名になった清水アキラが目張りにセロテープを使っていたが全くそんな印象のメイクだった、。もう映画の内容も忘れた、と言うか忘れたい。
 

 
このおじさんはかの”小林さん”、、そう映画は”ユージュアル・サスペクツ”(95年)、で重要な役割の”弁護士兼相棒”を演じた、ピート・ポスルスウェイトだ。
 
確かに日本人として配役されているならちょっと~、、となるのだがこれはヴァーバルが空想の中から勝手に創作した人物、床に落ちて割れたコーヒーカップの下にコバヤシ陶器店とあったのを見て勝手に作り出した名前なのでまあ許せるか?
 
っとまあこんな具合で”気に入らない日本人”を書き出してみたが、、どうも以前にも記事にしているような気がするぞ、。映画の中でこんな日本はひどくない?ってのもあるが要所だけは国内ロケを敢行しているようだ、今度はその逆に西洋人監督がその感性で日本人以上に上手く日本を捉えて独創的な”日本感”を披露してくれているケースもある。
 
例えば、、リドリー・スコット監督が撮った”ブラック・レイン”(89年)、あの時の大阪の繁華街、それに親分を追い詰める畑場の場面、(実際はカリフォルニアのワイン農場で撮影)、や工場内は素晴らしい出来だったと思う。
 
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そしてもう一本、これは007シリーズ”スカイフォール”(12年)で悪の巣窟として使われた長崎沖に浮かぶ”軍艦島”である。映画では香港からセイリングで一晩で着いてしまうと言う設定だったが結局島へは上陸も撮影隊が入る事もなかった。ボンドとラウルのやり取りはすべてセット内で、あたかも廃墟に上陸してロケを敢行したように見れるのだ、、監督はサム・メンデス
 
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