”オールド・シネマ・パラダイス”、、時々新作も

長年”映画と愛猫とオーストラリア”だったが札幌へ軟着陸し愛猫も亡くしこの新タイトルで心機一転だ。

ドクター・ドン・シャーリー & トニー・”ザ・リップ”・ヴァレロンガ

f:id:guch63:20190309141433p:plain


f:id:guch63:20190309141420j:plain


この二人が”グリーンブック”を手にディープ・サウスを回ったのは62年の秋ごろ、、正確には10月15日、その翌日にNYを出発している事になる。そしてトニー・”ザ・リップ”はドクター・シャーリーに雇われ12月24日にニューヨークへ帰るまでの8週間を演奏会に帯同する事になる、、、。
 このスチールは本物のトニー・ヴァレロンガとドン・シャーリーである。

 
トニーは30年生まれ、ドンは27年生まれだったのでこの”グリーンブック”で描かれた演奏旅行は二人がアラサーど真ん中って事になる。
 
ドンの両親はジャマイカ出身の移民で生まれたのはフロリダ州のペンサコーラ、2歳の時からピアノを習い始め18歳ではボストン・ポップスオーケストラ、それにロンドン交響楽団にも招かれ演奏会を開いている。49年にはハイチ政府からも招聘され演奏を開くなど成人する頃には既にかなりの名声を博していた。
 
そして60年代に入りアメリカ南部を”巡業”して回る事になるのだがこれが映画に描写されたツアーになっている。
 
一方のトニーはペンシルバニア生まれ、イタリアン移民の家庭に生まれ子供の頃にニューヨークはブロンクスに移転、そのまま幼少期を過ごし51~53年には軍隊に入りドイツに駐留していたのは劇中語られているが本当らしい。61年にはニューヨークの”コパカバーナ”(バリー・マニロウのヒット曲で有名)で働いていたのは事実でその後ドクター・ドンと演奏旅行へ出るのだが”俳優”(と言っても殆どエキストラ)としても数多くの作品に出ているのだ、、。
 
13年に82歳で亡くなっているが二人の息子たち、ニック(脚本家)とフランクが今回、実父の回顧録やドクター・ドンの遺族から伝え聞いた話を土台に”グリーンブック”の脚本を完成させたらしい、、。
 

この地図がアメリカの南部でディープサウス(濃い個所)と呼ばれる州だがツアーの最後はアラバマ州バーミンガムだった、、。

そこから一気にニューヨークまで雪のなかを運転して帰るのは大変だったんじゃないのかな??


そんな訳でまだこの映画がアタマの中に残像として残っている、。こんな事を事前に知っておればもっと映画にのり込めたかも知れないがもう充分に残っているし、後付けで理解するのも悪くはないだろう、。


余談、、このドン・シャーリーが居住していたのがカーネギー・ホールの上の豪華マンションだった。実は63年の暮れにそのカーネギー・ホールで上演されていた”ウェスト・サイド物語”だったかさては”マイ・フェア・レディ”だったか(どっちだったか未だニューヨーク生活を始めたばかりでロクに英語も判らず覚えてない)だがそのカーネギー・ホールだったのは確かだ。するとドンさんはその上層階に住んでいた??こりゃもう限りないニアミスじゃないのか??