その77年代から80年代の初め、映画で行けば一番記憶にあるのは”サタデイ・ナイト・フィーバー”と”スター・ウォーズ”になるんじゃないだろうか?この二本は77年に公開され共に初日から大ヒットしていた。
同年”未知との遭遇”、”アニーホール”、”エアポート’77”なんてのも公開されかなりの好成績を残しているがやはりジョン・トラボルタとその後、一連のシリーズものとしてスペース・オデッセイ等と言われるようになった”スター・ウォーズ”は他を圧倒する大成功だった。
この時代の007は丁度ロジャー・ムーアにバトンタッチされた時期で73年の”死ぬのは奴らだ”以降、”黄金銃を持つ男”(74年)、”私を愛したスパイ”(77年)、”ムーン・レイカー”(79年)更に80年代初頭に3本ともう毎年のように制作されていたものだ。時代が求めていたんだろうが内容はマンガチックな手法で個人的には余り好みのジェームス・ボンドじゃなかった、、それでも全部映画館へ駆け付けている。
79年には次女が生まれ映画館とゴルフ場巡りはちょっと休息期間に入った。別に此方が望んでいた訳じゃないのだが12月26日生まれ、出勤前に”アナタ、今日辺りよ、”と言われ用意していた荷物を持ち病院へ直行、、そしてそのまま夜の8時頃まですっかり忘れてしまった。
25日のクリスマスは休日でも東京の本社はそんな事はお構いなし、、なので朝からずっと仕事に追われてそのまま何時ものようにお仲間とバーへ、。其処で日本人の友人だったバーテンダーさんに”今日生まれるって言ってなかった?”と言われ一瞬にして酔いが醒めて思い出した。
これがワタシがこっぴどく婦長さんに叱られた”Queen Of Angel” と言う市内にあった病院、後年取り壊しになって再開発されたと聞いている、、、。
慌てて病院へ駆け付けたが担当の看護婦さんが怒り狂ってて家内にも合わせてくれないのだ、、そりゃ無理もない、恐らくアルコール臭かったんじゃなかろうか?(この頃は酒気帯び可の時代、泥酔はダメですが、)それでもやっとの事で頼み込んで窓越しに初対面となりました、これが携帯電話でもありゃナンの問題もなかったんだが、。
翌日は家内の居る病室へワイン一本とステーキ・ディナー、、こりゃ粋な計らいだった。でも奥さんは2泊で退院させられ帰宅、そのまま年末へ突入、次女は結局日本人なら特有のモンゴル斑がおでこに出てしまい一時はDVを疑われたもののそのまま居残りさせられ退院出来たのは翌年、正月早々だった、、。思い返せばああ、古き良き時代だったぜ、。