”オールド・シネマ・パラダイス”、、時々新作も

長年”映画と愛猫とオーストラリア”だったが札幌へ軟着陸し愛猫も亡くしこの新タイトルで心機一転だ。

あるホテルの閉鎖、、

今日はちょっと感傷的になっている、、もう大分以前から判ってはいたのだがおっさんがその”青春、そして働き盛り時代”を捧げた某ホテルが今年の8月に閉館される。

最初の東京オリンピック開催にあわせて62年に開業されたのでもう半世紀が経過している。特にホテルマンになる夢を持っていた訳ではなかったのだが入社して最初の一年は泊まり明け、日勤、遅番の勤務体系、3日くらい出勤するともう一週間が経過していた気分だった。土曜日曜、祭日は一切関係ない勤務体系で休みは一ヶ月に僅か5日だけ、、給料は確か税引き後手取りが3万円を欠けていたような気がする。でも厚生施設がちゃんとしていて社員食堂は朝昼晩、それに夜食も食べられ毎食が僅か60円で食べられた。それに風呂やシャワー、散髪屋もあって強者は四畳半、風呂なしのアパートに住み、会社ですべてを済ませていたっけ、、。そりゃ仕事はキツかったが文句も一切言わずにブーブー(ちょっとだけ)言いながらも遅刻欠勤する事なく(病欠もない)勤勉だった。

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本当は海外勤務が夢で当時このホテルではオランダのアムステルダムに全額出資のホテルを建設中だった。そのホテルへ配属されたかったのだが何も経験のない新卒じゃそうも簡単に配属される訳はない、、当時の担当常務さんに”キミ、ホテルってのはね一見派手な職場に見えるけど決してそんな事はないんだよ、裏方さんの仕事なんだよ”と諭され”海外へ行きたいのなら暫く東京でしっかり働いて経験を積まなきゃ”と言われた事が昨日のように思い出させる。

結局そのアムステルダムには2年後に”行くか?”と聞かれたのだがもうどっぷり東京でホテルマン修行中だったのでヨーロッパはすっぱりと諦めてしまった。そして最終的にはロス勤務やマレーシア短期勤務を含め20年の長きに渡ってお世話になりました。色々な部署への人事異動もあったし世界各地のホテルへも視察に行かせて貰いアメリカの大学へ短期留学までさせて貰った、、それにプライベートでは途中、結婚もしたし子供も出来たし、、やはり20年も現場にいたのでそりゃ沢山の思い出や失敗談も山とある、。

89年に転職したのだがそれとてもうこの職場が嫌になった訳ではなくどうしてもやり残した海外でホテル事業立ち上げを経験をしてみたかったと言うそれだけの理由だ。マレーシアのクアラルンプールで海外資本と提携してホテルを建設する事になりその営業部門を担当していたのだが残念ながら先方の資金不足からその計画が頓挫してしまいマレーシアから引き戻され社内で腐っていた時期にタイミング良く、オーストラリアでホテルを建設したいのだが、、と言う”良い話に”飛びついたって訳である。まさにバブルっている時期だったので普段は石橋を叩いても絶対に渡らない性格なクセにこの時ばかりは何故かパンツも履かないでそのまま清水の舞台から飛び降りてしまった気分である。そしてそのままずずっとオーストラリアの大地に停留しているって事になる、、まあホテルマン=管理人って事にも通じるのかも知れないが、、。

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そんなで長い間、ありがとう、、こよなく愛したこのロビーともこれでお別れかと思うとやはり寂しい、、8月までに一旦帰国出来ればもう一度このロビーに立ちたいものだがやはり我々は黒子に徹しているべきだろう、、。