”オールド・シネマ・パラダイス”、、時々新作も

長年”映画と愛猫とオーストラリア”だったが札幌へ軟着陸し愛猫も亡くしこの新タイトルで心機一転だ。

”アンタッチャブル”(87年)

fpdさんがショーン・コネリー追悼番組として(ブログかな?)主演映画のベスト・テンをフォロワーから投票で受け付けた。どこぞの大統領みたいに郵送投票は無効だとは言えないようにネット投票そしてその結果が、、。

 

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やはりタキシードは男の制服かな、、コレが一番似合っている。ああ軍服姿も良いな、、RIP。

 

投票者が15名で各自持ち点が30点、結果ダントツで83点を集めた”アンタッチャブル”が堂々の一位に輝いた。そして2位には51点と大きく差をつけて”薔薇の名前”、さらに48点と接戦だったが”インディー・ジョーンズ”に行ってしまい我らが007、ジェームズ・ボンド作品は5位に沈んでしまった、、。

そのボンド役は辛うじて”ロシアより愛をこめて”だが得点は48点以下だが僅差、、”レッド・オクトーバーを追え”より下と言う何ともジイさんには耐えがたきを忍ぶ結果となってしまったのだ、。

そりゃ何れも甲乙付けられない秀作揃いでこの選球眼には100%納得はしているのだが007で一気にスターダムに躍り出たショーン・コネリーの大当たり役がやっと5位と言うのが俄かに信じられないのだ。

その”アンタッチャブル”はブライアン・デ・パルマ監督の一世一代の秀作だが他の配役にケヴィン・コスナーロバート・デ・ニーロそしてアンディ・ガルシアがこの映画で鮮烈なデビューを飾っているのだ。ショーン・コネリーは初老のアイリッシュ警官を演じ、エリオット・ネスに請われてチームの一員になる。これで念願のオスカーも手にしているし実に風格ある素晴らしい模範警官役だった、。

なので投票された皆さんの入れ込みようは理解出来るし異論はない、でもやっぱり若かりし頃の”My name is Bond, James Bond”が胸の内を駆け巡っている。因みにあっしのベスト・テンを点数にすると、、;

 

「007ロシアより愛をこめて」6点「アンタッチャブル」4点「レッドオクトーバーを追え!」4点「薔薇の名前」4点「ロシアハウス」4点「丘」4点「王になろうとした男」4点。007役は外そうかとおもったのですが、、やはり原点だからなぁ~、、。

 

と言う訳で007からはこの”ロシア”だけでした。これ以外にも好きな作品は多く随分と楽しませて貰った、。

”ラブ・オブ・ザ・ゲーム”(99年)

又、見ちまった、、余程新作で見たいと思わせる、、イヤ、洋画自体がないせいだろうか?J:COMで課金されても良いですが、、と言っているのに食指の動く映画が全くないのにはこっちがビックリしている。やはりそろそろネトフリか??
 
このケヴィン・コスナーデトロイト・タイガースのエースとして最後のマウンドに立つ映画はかなり好きだ、、例え対戦相手がヤンキースでしかも完全試合を演じられてもだ、、それに名物、アナウンサーのヴィン・スカリーがこの試合の解説者として出演している、そう彼はロスアンジェルスドジャースの専任解説者で長い間、ドジャース・スタジアム専属でやっていたのだ。なので本来はこの試合で解説はする訳はない、、。
 

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しかしまあこの映画の原題は”For Love Of The Game"で”、愛する試合の為になんだが最初の”For”がないので邦題の意味は違う事になる。どうしてこんな場合、安直にカタカナにするかな、、?先日も八点鐘さんがブログに”シン・レッド・ライン”を投稿されていた。異色戦争映画で好きな作品だがカタカナで”シン”と表示すれば普通”Sin”だろう、これじゃ意味が全く違うのだ、。だって映画の原題は”Thin Red Line”で”Thin”で”薄い”と”罪”じゃお話にならないくらいに意味が違う、、これは公開当時配給元へ苦情を投稿したが返事はなかった、、。
 
かようにこれとか”ナイト”とか”ザ”なんてのはそのままカタカナにしないで欲しい。ナイトじゃ夜なのか騎士なのか、、続く言葉で判断も出来やしない。ダーク・ナイトとくりゃ”騎士”だと思うが”暗黒の夜”だってあるのだ、。
 
こっちの”愛する試合の為に”の方は架空の選手、ビリー・チャペルが現役最後の試合に臨む、実在のアメリカンリーグ中部地区、タイガースの選手として登場。ビリーは今夜はえらく調子が良い、キャッチャーのガズともコンビ抜群、回を重ねて気が付くとずっとノーヒットだ。
 
その彼の脳裏を過去の出来事、今壊れそうになっている恋人、ジェーン(ケリー・プレストン)の事が頭をよぎる。そして試合はいよいよ大詰め、果たして大記録達成なるか、、と言う映画なのだが、、回を追うごとに過去のジェーンとの出会い、自身が怪我をして再起を誓った事などが走馬灯が如く過って行く。
 
そして球団はシーズン終了後には買収される事になっているし自分も40歳、球団オーナーが変わってももう長くは選手生活は続けられないだろう、。そしていよいよ試合も終盤、、買収後の自身の身の振り方を球場で観戦しているオーナーに伝える為に白球に”I'm through,, For Love of the Game!”と書いてベンチの職員に託して手渡して貰う、。もうこの場面は100%涙腺崩壊だった、。
 

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このケヴィン・コスナーはスポーツ選手が実に良く似合うな、、プロゴルファーもやったし、、学生時代にはスポーツ万能だったらしいのでやはりサマになっているよ。もう一本かれが野球選手を演じた映画がある、、それは”さよならゲーム”(88年)、スーザン・サランドンと共演していたが此方もなかなかの出来だった。しがない二軍の選手を演じたのだがやはりユニフォームが似合っていた。

"ベン・ハー”(59年)

土曜日の朝、起きたら家内がもう居ない、美容院か買い物にでも行ったのかと思い天気予報をまずチェック、どうも終日、雪は降らないらしいが天候不順とかなのでまずコーヒーでも飲むべえ、、っとお湯を沸かしている最中に思いがけず画面が一転”ベン・ハー”の序曲が聞こえて来た、。

それで結局、家内もいない事だしでそのまま212分メシも食わずにテレビの前に釘付けだった、。

もう何回も見ているし長編だと言うの判っちゃいるのだが見始めるともう止められない悪い性格だ、。2016年度版だったら決してそんな事はなかったのだが、やはり久し振りのオリジナル版からは目が離せない、。

 

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確かに2020年になって見るとガレー船の戦闘場面等は波の高さと船の大きさのバランスが合わないし最新のCG技術で制作されたものには大分劣る、それでも膨大な数のエキストラを使い絢爛豪華な舞台装置は今のCGにも負けていない。競技場での戦車レースだってあの当時、これを実写出来た事は奇跡に近いんじゃなかろうか?実に素晴らしい、結局次のシークエンスを見たらやめようと思いつつ次から次へ進んで行くので止められなくなってしまった。

もう一つの楽しみはさて字幕はどうなっているんだろう、、とその興味も湧いてくるのだ。宿敵メッサラとの昔話や奴隷船で命を救った将軍との会話、更には馬を我が子のように愛する族長等々興味は尽きないし今の映画と違って罰当たり的なスラングや卑猥な表現は一切ないので字幕制作もさほどアタマを捻ってない、そりゃキリスト様の出番もあるし脚本家だってそんな神さまを罵る言葉は使えまい。

 

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終盤はイエス・キリストの処刑を背景にかなり宗教的な展開になっていくがこのシークエンスは西洋社会では良く知られたお話なので見ていても説得力が増すばかり。この洞窟に隔離されたジュダ・ベン・ハーは母、妹を探しあててキリストが処刑されたゴルゴダの丘へ向かう沿道で佇むシーンはやはり象徴的ではなかろうか?

朝っぱらから3時間越えの映画を見てしまいあっと言う間に一日が終わりそうだ。そうだそう言えば今日は朝も昼もまだ食ってなかった、、。

 

 

 

40年間世界一周!

こっちのブログに(Hatena)先日”八十日間世界一周”(1957年)を投稿したのであっちに投稿した(Ameba)記事をリブートしてもっと現実的な”40年間世界一周!”にして再投稿してみた。

 

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これは自室最後の飾りものだった世界地図、ちゃんとフレームを付けようと思いホームセンターで焦げ茶色の枠を買って来たのだが枠に入れると右下のニュージーランドが隠れてしまう。上手く枠を切り取ろうとしたら薄いプラスティック製なので割れそうで止めた、。かなり大きいのでもっとしっかりした枠を作らないと余計みすぼらしいので現在どうするか迷いつつ放り出してそのまま壁に貼ってある。

 

まずこの時代設定は1963年10月、生まれて初めてジェットストリームを体験して向かったのはサンフランシスコ経由でニューヨークだった。ゴールデンゲイト・ブリッジを眼下に見た時は感動ものだった。

 

時はJFK暗殺のちょっと前でNYでは世界万博が開かれていた。当時の日本館には美女の誉れ高かった西村亜希子さんが居て我らを笑顔で迎えてくれた、のちに長嶋茂雄選手の奥様に納まっている、、。

 

そのニューヨークから北上する事バスで6時間、プラッツバーグと言う田舎町が次の訪問地、そこでの寄宿舎生活、4年の間に南はフィラデルフィアノースカロライナ辺りまでは出掛けているが他には何処へも行く余裕さえ、金もなかった。長い休みにはひたすらレストランでの皿洗いやバスボーイだった。

 

それから一旦は東京へ戻り数年後には香港経由で一気に南下、ニュージーランドのインバーカーギル(此処は映画、”世界最速のインディアン”、バート・モンローの生誕地)、ダニーデンを経由してクライストチャーチと言う人口より断然羊が多いと言われた町に都合一年、滞在している。同時にアフリカ大陸はナイロビ、ケニヤと皮革製造過程の修行で回りアフリカ大陸の大きさを肌で感じて来た、残念ながらキリマンジャロは遠くに見ただけ、。

 

70年代初めはホテル業に転身、アメリカ中心の巡業でサンフランシスコ、ロスアンジェルス、シカゴ、デンバーニューオリンズ、ダラスにヒューストン、、国境を越えてアカプルコやら遥々リオ・デジャネイロ、戻ってマイアミ、アトランタ、カロライナなどの主要都市を制覇、映画の”グリーン・ブック”を地で行って来た。

 

そしてヨーロッパはアムズテルダムがメインで、コペンハーゲンプラハ、パリ、ロンドン、ミュンヘンデュッセルドルフと来て香港、、となり最後にはオーストラリア大陸へ上陸。ウィットサンディー、シドニーメルボルン、、、で主にブリスベンが居住地になりつい2年前までそのまま居残ってしまった、。最初の10年くらいの間にアセアン諸国は何度なく行き、クアラルンプールやバンコック、マニラ等、、グアムやハワイも何度となく訪れている。

決して本人は移住先として選んだ訳じゃない、、食を得る過程でついぞ仕事があるから住んでいた、の認識だったので永住権は大分後になって取得、別に要らなかったのだが州政府から便宜上持っていてくださいと言われたので有難く頂戴した。

 

見渡してみるとヨーロッパでもイタリアとかスイス、地中海に面した諸国には行く機会が無かったのは実に残念だ。しかし思い返すと何れも”社用”だったのか名所旧跡には行った事がない、って事は007と同じじゃないか?でも誰も殺してないぞ、、。精々町一番のホテルに泊まり美味いモノを食べる、それだけだったのは返す返すも残念だ、、もう今更、長時間機内で窮屈な思いはしたくないし海外巡りも遂に此処までだ、、。かと言って日本男児としては京都も知らずに逝けないなぁ~、、。

 

 

裏の”ベスト・キッド”(84年)

先日fpdさんが記事にしておられた”ベスト・キッド”は表のお話、じゃワタシは後塵を拝しその裏面をご披露しよう、、;

映画が公開されたのは84年でその直前に監督のジョン・アヴィルドセンと日系の空手の達人、ミスター・ミヤギを演じたパット・モリタが日本へ映画のお披露目にやって来た。残念ながら主役を演じたダニエル役のラルフ・マッチョは同行してない、、確か配給元の説明では在学中で来れなかったとか?

実はその時の宿泊先が当時ワタシが勤めていたホテルで営業部門に在籍していた事から滞在中の記者会見やらを担当する事になった。配給元との話し合いでは本国でも大掛かりな予算は取ってなくてむしろB級、、マイナーな作品としてそれなりに日本で宣伝し知名度を上げたい意向だった、。

確かに遥々アメリカからやって来たのは監督と日本じゃ指名度ゼロのおっさんだけ、、しかもこのパットさん、日本語はワタシより出来ない、(笑)。そもそも原題が”The

Moment Of Truth / The Karate Kid" だったのに後年、何時の間にか邦題が”ベスト・キッド”になっていたのは不思議な現象だった、。記者会見には辛うじてこのカタカナ表記じゃなかったかな(?)を檀上に掲げる事が出来たのだが、、。

そして記者会見当日、まあこっちも予算と認知度から60名も入れる宴会場で充分だろうと思って広い宴会場の半分を区切って設営、ちゃんと檀上と司会者、通訳席(絶対にあれは戸田先生じゃなかった)も設けた、でもやっぱりどう見ても”華”がない、、そりゃ”花”は飾ってそれなりに会場の雰囲気は出したのだが、、登場人物に女優がいないのでどうにもならなかった、。

 

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配給元の支局から急遽受付嬢として何人か華のある人を呼んでもらったがそれにしてもやって来た記者連中も20名程度でちょっと寂しかったかな?それに何処から見ても日本人風情のパットさんだが通訳を介さないとマッタク話が進まない、。数人の外国人記者がいてそれにはユーモアを持って接してくれるがそうなると今度は他の日本人記者がチンプンカンプンで逆通訳をする始末、これには結構焦ったっけ、。

 

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しかし監督のアヴィルドセンはあの”ロッキー”(76年)を大ヒットさせた功労者だし彼にもプライドがある、、この”ベスト・キッド”も何とか成功させたいと熱弁を振るっていた。まあそのお陰なのかアメリカを始め、世界レベルで大ヒットとなり結局シリーズ化も進み4話まで作られた。それにパットさんは助演男優賞候補としてノミネートもされたんじゃなかったか?

この映画での役名はミスター・ミヤギなんだが英語表記だと”Miyagi”になって劇中でもダニエルさんがどうしてもミヤギと言えず毎回ミヤジと言っては直されていた。そのやり取りが好評で笑えるシーンなのだがお陰でオリエンタルのジイさんはみんな”ミヤジ”と呼ばれる事になった、。

オーストラリアに居る頃、アレはまだ四郎が健在だったっけ、、うちの前を自転車で通り掛かった三人連れの悪ガキがワタシの事をみるなり”ヘーイ、、ミスター・ミヤジ”っとふざけ半分に言いながら通り過ぎた、。思わず、”ダニエルさ~ン”と返してやったらそのうちの一人が縁石に乗り上げ自転車から転がり落ちてしまった、、これは本当のお話し、ノン・フィクションです、。