”オールド・シネマ・パラダイス”、、時々新作も

長年”映画と愛猫とオーストラリア”だったが札幌へ軟着陸し愛猫も亡くしこの新タイトルで心機一転だ。

”わたしを離さないで”

雨模様の日曜日、こりゃ今日はダレも来ないだろう、、と引きこもりを決めていたら電話は鳴らずともいきなり事務所を訪ねて来る人達がいる、、70代のご夫婦に昨日来るとは言ってたが多分来ないだろうと思ってたフィリピンの人、更には通りがかりと言うかこりゃもうハナから冷やかし半分のおばちゃん、、。結局映画を見るにしても中断されるので有料配信を録画して落ち着いてから見る事に、、そのタイトルが”わたしを離さないで”、、テナントに言われてみたいな~、、原題は”Never Let Me Go”と言う立派な日本人作家カズオ・イシグロ氏原作の映画化である。
 
同じ彼の原作、”日の名残り”はアンソニー・ホプキンズとエマ・トンプソンで映画化されていて限りなく名作に近い秀作だが果たして此方はどうかな、、。
 
イメージ 1出だしの字幕に”人類は1958年、画期的な高度医学推進によって100歳を超える人生を送れるようになった、、”と出る。字が小さいのとすぐ消えちまうのでしっかり読んでいる間がないくらい、、でもこれが映画が進むにつれ重要なポイントである事に気付かされる。
 
背景はイギリスの厳格そうな寄宿舎、キャシー(キャリー・マリガン)のナレーションで始まる。一見子供達が思い思いに過ごす学校生活なのだがどうも何かおかしい、、出入り口では各自左腕に着けたIDを掲げスキャナーで出入りを確認している様子、、学校の授業にしても普通の科目がなく自分達の感性を表現する図画とかアートが殆どだ、、喫煙などは完全にご法度、、それがどうも普通、寄宿舎で子供たちに言い聞かせる方法とは何処か違う、、。
 
映画は3人の仲良し、幼年期のキャシー、ルース(キイラ・ナイトレー)、そしてトミー(アンドリュー・ガーフィールド)を中心に展開していく、学長を演じているのが懐かしやシャーロット・ランプリング、、幼いキャシーが何時もいじめに合っているトミーに段々と好意を寄せて好きになって行くのだがそれを横目で見ながらルースは面白くない、何時か自然にキャシーとの間に入って横取りするような感じでトミーに近付いてしまう、、。
 
此処までしっかり目を開いて見ているのだがどうもナニがどうなっているのやら、、意味不明でスンナリと馴染めない、こんな事なら先に原作を読んで置けば良かったかな、。そして映画は佳境へ、子供達も成長して今度は寄宿舎を出て”コテージ”と呼ばれる場所へ移っている、、えっ、何でまだみんな一緒に住んでいるだろう?此処ではルースもトミーもすっかり大人、、とは言っても16-18歳らしいのだが、。この二人はベッドを共にしていて通り掛かりのキャシーには目撃されている、。
 
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この辺りで最初の字幕の意味が重く圧し掛かって来る。その画期的な医学界に置ける進歩と言うのは人間のクローン化が可能になり先の寄宿舎で生活していた男女は将来人間に臓器を提供する為に育てられているクローンたちだったのだ、。おっさんの頭にはこりゃかなりな衝撃だった、。そりゃ画像を見ていても判らない事ばかりなのは無理はない、こりゃ別に英語が理解出来ないと言う理解不能ではなくて想定事態が理解不能って事だったんだ、、。
 
日本人であるイシグロ氏、もうイギリスに移られて大分経過するのだがこれはもうSFのジャンル、しかもイギリスの田舎町を背景に日本人の感性を合体させた素晴らしい映画に仕上がっている。
 
この寄宿舎、ヘイルシャム出身者は3-4回の臓器提供を経て30代では人生を終える事になっている。終盤キャシーはルースに幼年期にトミーを横取りした事を打ち明けられ許しを請われるが、、ドナーとなって短い人生を終える、トミーもキャシーに看取られながら同様にお役目を終えて3人のうちでは語り手のキャシーが介護者としてその勤めを果たしていたのだがそれもあと数年でドナーとなる事が彼女の運命なのである、。
 
舞台設定が近未来的なものであればそれなりの覚悟を持って見れるのだがそんなものは一切なくあくまでものどかなイギリスの田舎町風景、それが余計に胸に迫る。好き嫌いだの感情を持たぬように、しかも未来設計もない育てられ方をして人類に貢献する為だけに作られたクローン、、それが感情を持ち異性を好きになった事が悲劇なのか、、見終わったあと、アタマでは理解出来るのだが感情的には理解したくないような、、切ない気分になる映画だった、、、今夜はエリーと二人だし家内は外食なのでやっぱりヤケ酒かな??さあ飲もうかエリー、、、。