”オールド・シネマ・パラダイス”、、時々新作も

長年”映画と愛猫とオーストラリア”だったが札幌へ軟着陸し愛猫も亡くしこの新タイトルで心機一転だ。

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・”ラ・ラ・ランド” part 1

この新書庫、”オールド・シティ・パラダイス”の第二弾はロス・アンジェルスだ。自分じゃ最大限嫌っていたカタカナタイトルにすっかりハマってしまった。本来は”華やかなりし羅府”と言う邦題でも良かったんだが、。

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そのロス・アンジェルス、出張では何度となく宿泊していたビバリーウィルシャー・ホテル、(”プリティ・ウーマン”で初めてリチャード・ギアがビビアン役のジュリア・ロバーツと出会うシーンの後方)とは当時提携関係にあり何度となく訪れていた。

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支配人代理のヘレン・チャップリンおばさん(本名)や営業担当のスーザン(日系美女)、それにアナスターシア(ロシア美女)と言う上司で責任者、それに市の著名人でもあった名物爺さんのフェルナンド・コートライトと言うホテルのオーナーが運営全般に目を光らせていた。

そんな1977年当時、何時もの出張で西海岸へ出向き最後にこのロスへ、市内の販売代理店で契約更新の商談を終えてさあ明日はいよいよ帰国だぁ~、、3週間振りに日本の土が踏めるぞ、と勇んでいると東京本社からテレックスが入った、。

そう当時は既にファックスは実用化されていたものの通常の通信手段としてはまだテレックスが主流だった。その穴ポコテープを再生してみると、、”出張は延長、そのまま滞在を延ばし帰って来るな!”、、、っと読める。これには大慌てだった、ナンだと出張から帰って来るな~、とは何事だ??でも国際電話で確認する訳にも行かずあたふたしていると続編で、、”当地に営業所を設置する。営業に便利な事務所を確保し初代所長として赴任するように”と追加指示が返って来た。

もうこれは長いサラリーマン生活でもトップスリーにランクインする程のビックリ仰天ニュースだった。もうそこいら中に”ガチョガチョ、ガチョ~ンだ”と叫びまわっていたっけ。それにしてもまあ良くやるよ、戦時中じゃあるまいし出張に行っていた社員をそのまま”帰社に及ばず、当地に赴任しろ”ってのは尋常じゃない。商社と違って海外に拠点や生産工場がある業種じゃないし会社側も不慣れなのは重々承知、最初っから判っている、それに前例がないので、、と言われてもオレがそんな立場になるだなんて、。

それが1977の7月だった、、そしてそのまま離れ島に忘れられたような存在で帰国命令発令後に本社勤務の辞令が出たのが1983年7月だった、、即ちそのまま6年間も居座ってしまっていたのだ。業績が年々上がり本社側でもそれを認めていたからこそ駐在期間が長引いたんだと勝手に解釈していた。確かに業績が悪けりゃ閉鎖するなり別の社員を送り込むなりしたんだろう、、それに帰国に際しては左遷辞令って訳じゃなかったし、。

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↑ グリークシアター(夏場の昼は30度にもなるが砂漠陽気とでも言うのか夜には一気に冷えてコートは勿論毛布が必要)


しかし大きな声じゃ言えなかったが映画ファンにとっちゃ憧れのハリウッドだし映画はリアルタイムで全国何処よりも先に公開されていたのは事実でこれが”ラ・ラ・ランド”の世界にどっぷりそのまま入り込んでいたし、、これは嬉しかった。まだ映画を見るなら映画館へ、、の時代で自宅にはビデオなんてものは無かった。それにロスは日系人も多く郊外へ行くと”国際劇場”と言う邦画専門映画館まであったのだ。下に英語の字幕が入るのだが”寅さん”シリーズは皆さん大笑いだったなぁ~、、。

アカデミー賞の会場は当時ドロシー・チャンドラー劇場、ゴールデン・グローブはアンバサダー・ホテルからビバリーヒルトンへ移ったりと色々あったし毎夏開催される野外劇場グリーク・シアターではフランク・シナトラナナ・ムスクーリからトニー・ベネットにニール・ダイアモンドとステージを楽しんだ。毎年同じ料金体系の席を購入していると徐々によりステージに近い良い指定席券が送られて来る。隣に座る人とも顔見知りになったりしたもんだ。

それに何と言っても野球のドジャーズの本拠地、任期満了間際にはフェルナンド・バレンズエラと言うメキシコの怪童が現れそりゃもう凄い大活躍だったっけ、そしてあっという間に6年間が過ぎてしまった。

辞令が届きハタと気が付いたら現地では次女が生まれそれがもう3歳になろうかと言う時期だった、、パート2に続く、、、さて何時になるか?