ウッディ・アレン監督による”Midnight in Paris”、何で邦題は”真夜中のパリ”とか”パリの真夜中”じゃないんだろう?実に不思議だ、どうしてもカタカナじゃないといけないんだろうか?
実はウッディ・アレン監督は3~4作を除いて余り好きなタイプじゃない。この映画もそんなで何となくずっと敬遠してたんだが折角BSNHKがCM抜きで字幕版を配信するので録画して置いた。
背景は勿論パリ、一番良さそうな季節で冒頭、あちこちの街角を丁寧に撮ったもので観光客気分に浸れる。主人公はギル(オーウェン・ウィルソン)に婚約者のイネス(レイチェル・マクアダムス)と彼女の両親がアメリカからパリ観光へやって来る。
ギルとイネスは婚前旅行だが駆け出しの小説家、ギルはこのままパリに残って生活したい、でもイネスはカリフォルニアへ帰ってマリブの豪邸に住むのが夢だ。そんな二人の前にイネスの友人ポールとキャロル夫妻が現れ4人は行動を共にするようになる、。
ギルはポールのようなエセ博識振りを披露するヤツが苦手で何時も別行動に走ってしまう、、そんなギルがある晩、道に迷ってパリ市内を俳諧しているとクラシックカーに呼び止められ誘われるままにパーティ会場へ行くと其処にはコール・ポーターとかスコット・フィッツジェラルドがいたりするジャン・コクトーのパーティ会場だった、。
あんりゃこりゃ一気に1920年代にパリに居住していた有名人達が毎晩遊びまわっている、、って図式は新種のタイムマシーンものか?とこっちは意表をつかれた、。だからこの監督の手法は油断が出来ないし何が出て来るか予測が付かないところがオレ好みじゃないんだよ、、もう遅い、見始めてしまったじゃないか、。
そんな設定で毎晩、シンデレラとは逆の論法で深夜12時になるとそんな時代へ連れて行かれるギルだった、。そんな行く先で出て来るのはアーネスト・ヘミングウェイだったりガートルード・スタイン、それにパブロ・ピカソにその愛人、アドリアナ(マリオン・コティヤール)まで出て来ちゃうのだ、。そりゃ作家志望のギルは至極ご満悦、毎晩楽しくてしょうがない。
時代がこんがらかる事は無かったが終盤、すっかり心を奪われたアドリアナを伴って出掛けると其処はもっと古く19世紀のベル・エポック時代になっている。
そこに至ってやっと監督の意図するメッセージが読めた、。ピカソと別れる間際、アドリアナはこの時代が好きだ、もう20年代へは戻りたくないと言い出す始末。ギルは”人間は過去の魅力に引きずられているんだ”、”現にオレは2010年時代の人間だがこの1920年代が大好きさ”、同様にどんな年代へ戻っても人間はもっと前の良き古き時代を求め続けるのさ。
即ちノスタルジアに取りつかれた人々はどの時代へ辿り着いても必ずや自分が過ごして来たずっと昔の時代が最良だと信じているものなんだ、。確かにこのウッディ・アレン式時代逃避は判らないでもない、、現実にオレは昭和の時代、そろそろ東京タワーが完成するかと言う”ALWAYS 三丁目の夕日”の頃を何時までも懐かしがっている、、。でも本心は戻りたいとは思わない、酒だって飲めないし、あんな貧乏生活はご免だよ。