”オールド・シネマ・パラダイス”、、時々新作も

長年”映画と愛猫とオーストラリア”だったが札幌へ軟着陸し愛猫も亡くしこの新タイトルで心機一転だ。

いきなり2008年9月へ そして年末

2008年9月、四郎がもう大分辛そうだ。食事をするのが大変で大好きだった生肉をハンバーグ状にして手で丸めて口元へ、それでも舌がもつれるのかなかなか喉の奥へ入っていかない。水はボールを置いてやるとゆっくりだが飲める、そんな朝、一階の玄関脇にベッドを設えて寝かせているのだが様子を見に行くと突然自分に異変が、、屈んだ拍子に呼吸が思うように出来ない。
 
何やら喘息みたいな感じでぜいぜい言うしどうも肺が機能していないような変な気分だ。この数日風邪気味ではいたのだがこりゃどうした事か、、そのうち口を大きく開けても呼吸が困難に、やっぱり何処かおかしい、寝ている家内を起こして慌てて近所の救急病院へ駆けつける。
 
レントゲンを撮って救急病棟にいると担当医が現れ“この救急病棟には専門医がいないのでちょっと離れた病院で専門医がいる所へ移って欲しい”で腕に点滴の針を刺したまま一旦自宅へ、荷物をまとめて即折り返し指定された病院へ行く。個室で点滴と呼吸器マスクを取り付け待つ事2時間、やっと専門医のご登場。レントゲンを見ながら触診、こりゃ“急性喘息ですね”、えっー、そんなのは子供の病気なんじゃ、、?“イヤ、大人でも原因不明ながらかかるケースがあります”、“薬剤を処方しますから即入院して下さい”、、、そんな今、四郎が大変な時期でして入院なんかしてられないんですが、これは口からは出なかった、。
 
個室から二人部屋へ移動、結局そこに3泊4日となってしまった。普段新聞なんかゆっくり読まないのだが3日目の朝には検査の結果次第では退院ですと言われそれとなく眺めていると目に留まったのが“ビジネス売買欄”に掲載されていた“Management Rights”と言うもので“タウンハウス、集合住宅に住んでそこの管理人をやる事で保障された収入が入ります。”ふーん、そんな商売もあるんだ、、おい待てよ、これが本当ならもう大きな家は不要だし日本との間で過去15年に渡り細々とやっていた貿易の商売も解消した事だしリゾートの管理費だけに頼るより別収入が見込めて一石二鳥じゃないか。第一年金が貰えるようになってもそれだけじゃ食えん、、。
 
そこで早速病院のロビーに下りて電話をしてみると、相手は仲介業者かと思いきやビジネスを売りたいと言うご本人が出て来た、“じゃ明日伺いますので宜しく、、”そして検査の結果は良好、翌週の診察を約束させられその日の午後には退院。四郎の待つ我が家へ帰ってみると薬のかいもなく相変わらず辛そうな状況は改善されておらず人の顔を見ても以前にように尻尾を振れない、、。此方の呼吸はやっと元通りだがどうも覚束ない、又、急に呼吸困難になったらと思うとお酒も飲めない。
 
そして翌日イマイチその仕組みが判っていない家内を伴って先の売却希望物件へ、ブリスベン市内から北へ20分、電車の駅から徒歩3分と絶好の位置、敷地の入り口には大きな鉄扉門があって来訪者はインターコムで知らせないと開かない。
 
総戸数が45戸、そのうち自身で所有して居住している人が9戸あるそうな、従って残り36戸は全部賃貸。管理人はプール際の平屋建て3寝室のタウンハウス、併設されている広い事務所が60平米以上あって付随施設として付いて来る。居住区を含めた売値の総額が998,000ドル(殆ど一億じゃん、、)で年間の収入が110,000ドル(約10%で約1,200万円)って事は毎月100万円の収入か、、。
 
50代のご夫婦がもう4年越しに管理人をやっているのだがご主人が市内でフルタイムの仕事に就くのでそれを機会に売りたい由、子供はいないそうだ。“州政府発行の管理人のライセンスを取得すればダレでも出来るのよ、、“とは奥様、”賃貸希望者はすぐに見つかるし今も日本人カップルがいるの、、“で敷地内をご案内頂く。一階がガレージで2-3階が居間、寝室と言う典型的な下駄履きマンション、まあお店はないがこりゃ引越しする側は大変だな、、階段も狭いし。結局小一時間色々とご教授頂き始めてこんな管理人業なるものが存在しビジネスとして正規に売買されている事が判った。
 
先方には申し訳ないが良い勉強をさせて貰った。まあ何れにせよこの金額はちょっとな~、、自宅を売ってもそんなに借り入れは出来ないし、まあ銀行へ聞きに行くだけ行ってみるか。
 
それが2008年の11月、それから本格的に他の物件を調べ始め同時にライセンス取得を目指して必死の勉強を覚悟したのであります。この11月末、遂に最愛の四郎を看取る事になり暫し何も手につかない時期が、7月にモノトン、そして11月に四郎と亡くした思い出一杯の家にはもう愛着もなくなりこれが家を売る決心に拍車をかけた。手がけたリゾート開発がバブルで破綻した後、15年余に渡り細々と営業していた貿易の仕事も日本在住のパートナーが別の仕事に移り倉庫代わりに使っていた自宅のガレージも不要になったと言うのも大きな理由であった。“もうこんな家は引っ越す”の言葉に家内も一切反対もせずあれよあれよと言う間に年が変わり2009年。