”オールド・シネマ・パラダイス”、、時々新作も

長年”映画と愛猫とオーストラリア”だったが札幌へ軟着陸し愛猫も亡くしこの新タイトルで心機一転だ。

”From Past To Present”, ボケた記憶を頼りに今のうちに書いておくか、

それなりの人生を送って来て一番幼い頃の思い出とは何だろう、、いや何時頃の出来事を覚えているものだろう。部分的に記憶のある出来事、全く欠落している事柄、記憶がなければ覚えている訳もないのだが。
 
その例が戦後間もない当時、焼け野原だった情景が頭の片隅にある。しかし幼児の記憶が3-4歳からあったとして当時既に戦後5-6年は経過していた筈なので焼け野原であった事はあり得ない。近所にあった100坪ほどの住宅地は瓦礫の山、そこに水道管だけがニョキっと突き出ていた事が忘れられない、あれは単に宅地開発の途中だったのではないだろうか。そうやって時系列で並べてみると見てはいない筈の光景が残像のように記憶にあったりする。まあ根がいい加減な人間の証明だろう。
 
僅かだが幼稚園の記憶はある。近所の聖ヨゼフ会と言う所に通っていたのだが敷地の真ん中に巨大な礼拝堂があり何時の季節に入っても中はひんやりと涼しく暗くて気味が悪かった事は確実に子供心に刻まれている。好きな先生がいて流石に名前までは覚えていないのだが何時も側に行く口実を考えていたような気がする。
 
自宅の前には進駐軍が出入りする病院があり広い芝生は格好の遊び場であった。アメリカ軍の兵士が多分朝鮮戦争だろう、怪我も治り退屈しのぎにベランダから手を振ってくれたりチョコレート、ガムやポールペンを貰った事もあった。
 
もう一つ鮮明な記憶があるのは我が家に初めて届いたテレビである。これはもう間違いようがない、画面は小さいものだったが室内アンテナが付いており画面には何やら垂れ幕がおりたような、、それで初めて見た放送がNHKの番組である。勿論この時期は力道山大活躍の時代、始まるとご近所からも見に来ていた、、そうまるで“三丁目の夕日”である。
 
当時母親、祖母、住み込みのお手伝いさんとの四人暮らし、朝起きると隣の庭から臭って来るクサヤが強烈で魚とはこんなに臭いものなんだ、と言うのが実家の記憶である。
 
母はかなり売れた芸妓で毎夕着飾った衣装で車屋さんの迎えに応じてお座敷へ出掛けていた。祖母が検番とのやり取りに終始するなか何時もお手伝いさんの作ってくれる夕食を済ませ翌朝越境入学で入った小学校へ通う為、早くに寝かされていた。歩いても10分程度の近くに新橋演舞場があり毎春、秋には“東をどり”が開催される。これは新橋芸妓の発表会みたいなもので何時も楽屋口から入りそこに出店していたおでん屋のにおいを嗅ぎながら母親のいる楽屋へ行くのが楽しみであった。舞台も華やかで共演の芸妓さんや裏方さんみんなからちやほやされていた記憶もある。とある舞台で殺される場面があったそうでそれを見て本当に刺されたものと思い込み客席で大泣きしたそうな、しかしこれは全く記憶になく後年祖母から聞いた話しである。それに舞台衣装で使った外套風マントが欲しくて小道具さんに無理を言ったとか、しかしそれを身体に纏って二階から飛び降りたそうな、幸い骨折もせず張り出した軒下がクッションになったせいか気絶をしただけと聞くがこれも実際に飛んだ記憶は全くない。
 
その頃父親から送られて来たドーナッツ盤レコードは録音された声の便りだがニューヨークのエンパイヤー・ステート・ビルに登った時のもので雑音が多かったけれどちゃんと言っている事は聞き取れた。日本へ送られて来るのにどの程度時間がかかったのかどんな仕組みなのかは判らないが父親の声がレコードから流れ出て来るのにはびっくりしたものだ。
 
父親は戦前、満州で皮革事業に手を染め、国内に引き上げるや会社と工場を立ち上げそれなりに成功した実業家である。父親と言うより年齢的には祖父にちかいものがあって毎晩会える訳ではないが何回となく夜行寝台列車で別府や長崎へも行ったし毎年夏の終わりには伊豆の川奈へ出掛けるのが恒例であった。思えば其処で泳ぎも覚えたし本格的な西洋料理や出来はしなかったがゴルフの楽しさ、歩く辛さか、、等課外授業として学んだ事は多い。父親は要するにハイカラな人でゴルフ大好き人間、着こなしも何処か凛とした所があって苦みばしった風貌、言葉は少なく普段はいかにも寡黙な人物であった。電話口でも自分から名乗る事は一切しなかった、仕事をしている時はどうだったのかは判らないが麹町に会社があり工場は下町、そして商工会議所を行き来するのが常であった。
 
確か映画もこの頃、両親に連れられて見たのが最初ではないだろうか。ダニー・ケイ主演の“5つの銅貨”それに“80日間世界一周”、“全艦発進せよ!”はかなりはっきりと覚えている。祖母とは“ベン・ハー”をテアトル東京で見たし松竹の株主優待券が何時も送られて来ていたので随分邦画にも行った記憶がある。築地の映画館街や銀座も徒歩圏、せっせと通っていたものだ。
                                                                                    
当時の子供は大方そうだが野球が好きで月島のリトルリーグにも入っていた。祖母の親戚筋に著名なプロ野球選手がいて彼の存在も大きかったのかも知れない。いかんせん当時彼の所属する国鉄スワローズは成績が悪く、金田大投手はいても何時も最下位のていたらく、まあ巨人が勝てば文句は言わなかったが折角家族優待券を貰って応援に行っても回りは国鉄の応援団席だし負けるのでちっとも楽しくなかった。学校へは都電かバスを乗り継ぐので放課後一緒に遊べる友人は近所にはいなかった。そこで隣に住む親友のクニヒロちゃんとつるんでは自転車に乗りかなり遠出もしていた。
 
同時にこれは母親の影響が大きかったと思うが狂言を習わされていた。師匠は狂言界の重鎮、和泉流九代目の三宅藤九郎先生、大曲の能楽堂の舞台にも何度となく立っている。稽古が辛いと思った記憶はなくもっと根を詰めてしっかりやっていれば違った人生があったかも知れない。それにしても塾と付くものにはそろばん塾以外通った事もないのだが学校、野球、映画に狂言、、、と良く時間があったものだ。余りに手を広げるから何一つとして熟練の域には達しなかった。後年実は長唄も三味線に合わせ唸っていたのだがこれはもっと継続しておればと悔やまれる、でもアメリカへ渡ってしまったのでやはりそれまでか、、。
 
公立の小学校は6年間通してずっと同じ2組、クラスの入れ替えもなかった。3年までが奥村先生で確か4年から山田先生であった。山田先生は大変厳しい先生でゲンコツが飛んで来る事もしばしば、途中で編入や転出して行った生徒はいるがクラス会と言うと私には今、これしかない、、皆顔つきや身体つきは変わってしまったが会えば即座に思い出すし奥村先生も含めて今でも15人は確実に集まる。
 
叔母が銀座で“ロン”と言う雀荘、その3~4軒隣りでは叔父が“スノー”と言うバーをやっていたので麹町から自宅へ帰る道すがら良く途中下車をしちゃ遊びに寄っていた。野球の練習相手として何時も球を受けてくれたその叔父は青函連絡船のなかで肝硬変が悪化しあっけなく逝ってしまった。