いきなりですがこの真ん中の白黒セーターのブラザー・フランシスが当事の校長先生、、そして周りでペラペラやっているのがナンと同じ寮生活を過ごした仲間たちです。実際には彼らは一年先輩で、おっさんがジュニアー・イヤーの時にはシニアー・イヤーでした。
こんなレアものをYoutubeで見つけるなんて、、改めてビックリです。実はブログ友さんが今ニューヨークを訪問中でNY州を北上しているとか、、其処で学生時代を過ごしたプラッツバーグと言う小さな田舎町の存在をお知らせしたのですが妙に今度は自分でも気になって、、検索してみたら出て来たと言う訳です。
その昔、この学校は厳格で厳しいカソリックの男子校、建前は全寮制でしたが地元に住む生徒もある程度受け入れており三分の一は地元生徒でした。ニューヨーク州とは言えカナダの国境に近く冬の寒さは北海道並み、、夜校庭に散水すると翌朝には立派なスケートリンクが出来ていました。その役目は下級生の仕事、、寒い中シャワーを浴びた後にやるともう髪の毛がバリバリと音をたてる有様でした。
朝昼晩の食事は構内のカフェテリア、勿論日本食などあるハズもなく最初の頃は良く味噌汁の中で泳いでいる夢を見たもんです、、。日本とのやり取りだって手紙のみ、インターネットも携帯電話もファックスさえまだ発明されてない時代、国際電話などもっての他、遂に家族の声を聞く事もなく彼の地に4年間も幽閉されていました。
寮生活はそれなりで楽しかったのですが最初の一年は校舎の上層階にある軍隊式の宿舎、一面にベッドが並び起床、消灯と毎日厳しい生活を強いられました。先生たちは全員がファーザー&ブラザーでカフェテリアの職員は皆さんシスター、、。2年目から学校の成績にも左右されましたが学校の敷地内に隣接している一軒家を買い上げて寄宿舎として運営しておりそのうちの一軒に入る許可が出て今度は6-10人が住む一軒家での生活でした。毎水曜日の礼拝と日曜日はちゃんと制服を来て(ブレザーとネクタイですが)全員集合、立派な教会でお祈りを、、、学校が長い休みになると(イースターとかクリスマス、、それに長い夏休み)友人宅へ呼ばれていったり長距離バスでNYのマンハッタンへ出ちゃ出稼ぎ労働者のように住み込みで働いてましたっけ、、。
こうやってかつての”同級生”を見ると、、みんなおっさんになったな、、が第一印象。まあ人のことは言えませんが、、でも校長先生はそんなに変わってない、、流石に80歳は越されているんではないだろうか??