”オールド・シネマ・パラダイス”、、時々新作も

長年”映画と愛猫とオーストラリア”だったが札幌へ軟着陸し愛猫も亡くしこの新タイトルで心機一転だ。

”華麗なるギャッツビー”(13年)

イメージ 1原作の”グレート・ギャッツビー”はスコット・フィッツジェラルドが25年に書いたもので舞台はニューヨーク、ロングアイランドの架空の町ウェスト・エッグである。モデルになったのは彼が実際に住んでいたグレート・ネックと言うところだが背景は22年、アメリカがバブルっている真っ最中の時期だ。
 
小説は近代アメリカ史の”古典”とまで言われる評価だしこれまでに何回も翻訳されいる。映画化もロバート・レッドフォードとミア・ファーロー主演が一番印象深いがこの13年、最新版に至るまでに4回も制作されている。
 
確か原作が翻訳された時はそのまま”グレート・ギャツビー”だったのだが74年に映画化された折には国内では”華麗”と言う言葉が一種の流行りだったせいか”華麗なるギャッツビー”と命名され今回もそのまんまこれが邦題になっている。
 
主役の二人はデカプリオにケリー・マリガン、、そして監督がオージーのバズ・レーマンである。オーストラリア人監督として最もハリウッドで成功している監督、これまでに”オーストラリア”や”ムーラン・ルージュ”、、など数多くの大作を世に送っているのだが、、、。
 
まあ期待一杯と言う訳でもなかったが映画館で見損なったのを後悔しながら、ワク、、気分で見始めた。長丁場で上映時間が142分、でもナンと途中で敢え無く挫折、、仕切り直して翌日後半戦、っで二日間かかってやっと見終わった。多分映画館だったら一気に見てたと思うのだが、、一番堪えたのはその画面構成だ。バズ・レーマン監督独特の”ムーラン・ルージュ”スタイルと言えば良いのかごちゃごちゃ豪華な設定をふんだんに惜しげなく展開する手法は期待通りなのだがその殆ど全てがCG画像になっている。恐らく実写で撮影された箇所は数えるほどじゃないのか、、それも登場人物が会話をしている室内セットを使ったシーンだけか、、。
 
大きな辺のお屋敷にしても海にしても海岸にしてもどう見ても実写には見えない、一旦それを意識しだすと車が疾走する場面からニューヨークの高くそびえる高層ビル群、、全てがCG処理されているような錯覚、、イヤ、錯覚じゃない事に気付かされる。別にそれが悪いとも思わないしそれなりの効果があるのだが彼が”ムーラン・ルージュ”(01年)で使った手法に此処まで酷使していると何となく見てはいけないモノを見せられたようで、、遂に最後までそのがっかり感が抜けなかった。
 
原作では苦悩するギャッツビーを物語りの中心に据えて友人のニック(トビー・マクグアイヤー)が彼の人となりを語るようにして進んでいく。映画でもそのまま継承されていて後年ニックが医者の診察を受けながらギャツビーの事を記述するように進行していくのだが何故彼が大富豪なのかはさらりと判ってしまう。アメリカが浮かれ景気の真っ最中という事もあるのだがこの辺りのギャッツビーの描写が頼りないのでナンでそんなに”どうってことのない女、デイジー”に入れ込んで悩むのか理解に苦しむ箇所がある。
 
これは原作を読んでそのままアタマに仕舞っておくか、、大きな映画館で絢爛豪華な衣装に目を見張り、音響効果に心酔するかのどちらかの楽しみ方だろう。ちっこいテレビ画面でちまちま見てしかも途中で休憩を挟んで翌日後半を見るようじゃ良さは判らない、、そうレーマン監督に言われているようだよ、、。
 
 
 
 
 
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