”オールド・シネマ・パラダイス”、、時々新作も

長年”映画と愛猫とオーストラリア”だったが札幌へ軟着陸し愛猫も亡くしこの新タイトルで心機一転だ。

”ウェスト・サイド物語”(61年)

始めて映画館で見たのは当時有楽町にあったスカラ座だ。確か宝塚劇場と一体になったビルの中でエレベーターで6階、或いは7階だったかに上がるのだ。大好きだった叔母に連れられて行った事を鮮明に覚えている。予告編だのニュースの後に始まったのだが音楽ばかりでちっともスクリーンが変化しない、、やっと画面が明るくなったと思ったら今度はニューヨークを上空から撮影した場面が延々と続く、これがオーバーチュアーってものだと知ったのだが初体験だった。

そのニューヨークのマンハッタン、この映画から僅か数年後に今度は自分が檻に囲まれたようなバスケットボール用のコートに立っているとは夢にも思ってなかったぜ、、しかもプエルトリコの友人に囲まれて、。

ミュージカルとしてやはりこれは名作だった。レナード・バーンスタイン作曲の名曲の数々、、それにロバート・ワイズ監督、舞台背景などなど、、この映画鑑賞を皮切りにブロードウェイの舞台でも観戦したし後年、ジョージ・チャキリスの日本公演にも駆けつけたっけ。今はどうなったか当時、大手町にサンケイホールってのがあって前売り券を確保、しっかり観戦した。この時のステージは今だに生涯ライブランキング・トップテンに入る程の素晴らしい、忘れられない公演だった。

イメージ 1そのジョージ・チャキリス、既にダンサーとしてマリリン・モンロー主演の”紳士は金髪がお好き”(53年)にはバックダンサーとして出演しているのが確認出来るがこの”ウェスト・サイド”に抜擢されるまでは”Nonークレジット”でエンドロールにも名前さえ出て来ない扱いだった。それがオスカーにゴールデン・グローブ両方で助演男優賞をゲット、ミリッシュ・カンパニー(プロダクション)に見込まれ連続して主演を演じている。

”ダイアモンド・ヘッド”(62年)ではチャールトン・ヘストンそれにイベット・ミミュウーと共演し、、

”ブーベの恋人”(63年)にはイタリアへ渡り当時、人気抜群だったクラウディア・カルデナーレと共演これまで日本では大ヒットした。

”太陽の帝王”(63年)ではユル・ブリンナーと共演、マヤ帝国の王子様を演じた。監督はJ・L・トンプソンで同じユル・ブリンナートニー・カーチスで”隊長ブーリバ”を撮ったばかりだった、、。

”633爆撃隊”(64年)ではクリフ・ロバートソンと共演、舞台は44年戦下のイギリス、爆撃機を舞台にした戦争映画だった。

”あしやからの飛行”(64年)では舞台を日本の芦屋へ移しこれまたユル・ブリンナーと共演、日本からは大映永田雅一の時代で撮影協力を得て紅一点の女優さんは滝瑛子だった。この辺りの映画は恐らく版権の所在がはっきりしていないのか何時になってもテレビでは放映されないのだ。

その後、

キプロス脱出作戦”(65年)
モナリザの恋人”(65年)
パリは燃えているか?”(66年)

等があったが70年代になるとテレビ出演とかドラマシリーズへの出演だけで残念ながらスクリーンからは姿をくらましてしまった。現在83歳でヨーロッパに定住、趣味だった銀細工とそのアクセサリーのデザインに没頭しているらしい、。

ありゃ~、、”ウェスト・サイド”の話をしてたつもりが最後は”イースト・サイド”へ行っちまった、、。しかし60年代からこれまで多くのミュージカルの名作が制作されている、”シェルブールの雨傘”、”南太平洋”、”王様と私”、”サウンド・オブ・ミュージック”、”マイフェア・レディ”、、”サタディーナイト・フィーバー”や”シカゴ”、それに”ムーラン・ルージュ”、、、”ラ・ラ・ランド”に”グレイテスト・ショーマン”まであるのだが一位は半世紀以上が経過しても不動かも知れない。