遂に札幌には”緊急事態宣言”が発令されてしまった。これまでの”外出自粛”を求める要求とは違って大型店舗や関連行政の窓口や街のレストランまでが休業要請の対象に、、でもそんな事はものともせず朝っぱらから映画館へゴー、それも8:50分の回だ。昨日までは11:15の上映もあったし6回も上映されていたのにこの”緊急事態宣言”のせいか朝、イチバンっきゃ上映されていないのだ。
実に久し振りの大画面、やっぱり映画はこれじゃないと、でも見た映画は”ファーザー”、こんな大画面じゃなくても良かったのだが2時間の上映時間、時間の経過をすっかり忘れて最後まで瞬きもせずにのめり込んで来た。
主演は今年、アカデミー賞で主演男優賞に輝いたアンソニー・ホプキンズ、それと娘のアンを演じたオリビア・コールマン(彼女も主演女優賞にノミネート)、監督はフランス人のフロリアン・ゼラーで原作ではパリが舞台だったが映画化ではロンドンになり言語も英語となっている。原題はそのまま”The Father"、で認知症が進む父親と娘の葛藤がメイン・テーマだ。映画の本筋はかなり”ヘビー”な展開で決して笑って見続けられる映画ではない。むしろ明日は我が身、、とつい乗り出してしまうし自分がそうなったらどうしよう、、とそればかりが頭の片隅に残ってしまう。
良く人は”名演技”とはどんなもんですか?と言うが端的に言えば映画でも舞台でもそのキャラクターに成り切る事がまず最初に挙げられる。見ている側はその当人が実際にはどんな人かも知らない訳だし観客としてはその役に成り切っているのかどうかの判断は難しい。
まあ架空の人物をその役者さんなりの感性で演じる事が出来るのが役者さんの特権だとして観客は自然とその演技に共感し演じられている人物像に知らずにのめり込んでしまう、、それが見事に成し遂げられた場合にそれは”名演技”として認めて良いのではなかろうか?無論それに否応なしに付いて来るのが感情豊かに、或いは激情に駆られながら語るセリフだって重要な要素である。
ついそんな事を思ってしまったアンソニー・ホプキンズだった。日本のメディアは誰かの訃報に接したりするとすぐに”名優”だった、、あの”名優逝く”と直ぐに連発するがそんな安売り名優とは一線を画した真の名演技で魅せてくれた、はこんなケースに使われて然るべきだと思う。
これまで”日の名残り”では限られた分野で類い稀な才能を発揮する執事役、それも淡い恋心を胸の内に仕舞い込んで仕事に没頭する役柄、”羊たちの沈黙”では完全なるサイコパスキラー、、それも頭脳明晰で必死になっているFBIの捜査努力を欺ける人物像、更には自身の夢を追いかけオートバイレースで世界記録を更新してしまう老練の夢多きレーサーを”世界最速のインディアン”で見せてくれた。
映画の幕開けは娘のアンとの会話で始まる、どうやら父のアンソニーの世話をする為に介護士が来ていたようだがその女性が自分の腕時計を盗んだとかで口論になり追い出してしまったらしい、。それに既に亡くなっているもう一人の娘が最近、顔を見せないと嘆いているのだ。
そんな状況でアンソニーの症状は日毎に悪くなっていく、、画面には過去、現在そしてアンの別れた夫のポールやもう一人の娘、ローラが出て来るがどれも彼の頭のなかでの出来事らしく観客は一体どれが真実で現在はどうなっているのかまごついてしまう。
アンソニーが語るセリフから一体何が真実なのかそしてどの程度彼の認知症は進んでいるのかを推察するしかない、、ヒントはアンのセリフで彼女が現実に見ている事柄が一番正しいもので自身がパリへ越すことを決めたのはどうやら現実に進行中の出来事って事が判って来るのだ。
そんなであっと言う間に映画は終盤へ、、アンが訪問した後なのかタクシーで去っていく。カメラは室内へ入りアンソニーが自分の部屋で目覚め、介護ヘルパーさんに”さあ、お天気も良いので公園へ散歩に行きましょう”と優しく誘われている。その後に、どうやらアンソニーが目覚めたのはあれだけ入るのを嫌がっていた何処かの施設らしいって事が判る。そしてヘルパーさんにさっき帰ったアンやいまだにやっても来ないローラはどうしているんだろう、、と尋ねている。
更にカメラはカットされずにそのまま長回しでバンするが過去と現在が交差する中で自身が壊れていくと訴える場面、そしてアンソニーが”マミー、マミー”と自分の母親を呼んで号泣する、、この僅か数分の為にこの映画はあったのだ。実に素晴らしい後世に残る名場面だった、マスクの中に涙がこぼれ落ちてしまいしょっぱいたらなかったぜ。これこそ名優が演じた素晴らしいラストシーンではなかろうか?